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わが蒐書の歴史の一斑

-戲曲小説書を中心に-(注)

長澤規矩也

 

私が東大の支那文學科に入學したわけは、文學を愛好したからではない。私はもと先王父龜之助のもとで育てられ、數學者になる運命を與へられてゐた。私の名の根據もそこにある。しかし、東京府立四中に入學してから、私には數學者となる素質がないことが私自身には勿論、先王父にも解つてきた。先王父は殆ど獨學で數學に通ずるに至つたのであるが、私は學校以外に師に就いて學んでも、數學の學力は伸びなかつた。

先王父は史書を愛讀して、詩文を朗誦してゐた。それのみか和漢の歴史や詩文の書物を多く集め、よく私に語つた。「數學がものにならなかつたら、歴史か漢文かをやるつもりであつた。」と。古書を集めることが大好きで、專門の算法の和洋の古書は勿論のこと、字典辭書事彙の類も和洋古今に渉り、各方面の和裝古書に及び、就中、邦人の手に成つた漢詩文集を集め、詩文の作品のみならず、凡そ邦人が漢文で書いたものは各方面に渉つた。しかし、唐本は紙がいやだといつて殆ど買はなかつた。

神田の野田といふ古洋書屋に連れて行かれたのは、小學校に入る前であつたらうか。本郷の本富士町に中善(中村善七)とよぶ好々爺の古書賈があり、狩野亨吉博士に愛せられてゐたが、先王父もその實直さを愛してゐた。大きな風呂敷を持ち込んで、その中の書物を置いて行き、次囘までに購否を決定するのが慣はしで、後には淺倉屋の番頭で勢のよい野上の辰つあんもこのやうであつた。そんなわけで、私は古書が好きになつたらしい。後年、北京に旅行滯在中、北京の書賈は毎朝十數人づつ風呂敷に頭一本(第一册)を澤山包んで、私が滯在中の大倉洋行に持込んだが、前者との差は、一部全部か頭一本ばかりかといふことと、來往の頻繁の度合とだけであつて、彼我はよく似たことであつた。

古書展も、横濱や柏木のことは知らないが、兩國の美術倶樂部にはいつも連れて行かれた。編輯の助手と同行して、歸途は牛鍋を振舞つてもらつたが、歸宅後の落丁調べと夏日の蟲干の手傳とは、書生や女中と一緖の仕事であつた。琳琅閣は池の端の仲町にあつた頃を覺えてゐる。淺倉屋の湯島切通の店は勿論知つてゐる。當時、詩文集は一册一圓以上は高くてもつたいないとて、先王父自らも鈔寫し、書生にも書寫せしめた。今でも覺えてゐるのは精里の二集抄三集抄を高いとて寫させたことである。であるから、神田を歩いても、洋書の堅木屋・中西屋、和書の松雲堂・山本・大屋・松文堂は訪れても、村口書房は苦手であつた。今から思ふと、村口書房の先代は、先王父などは相手にしなかつたのである。文求堂は唐本專門だといつて行かなかつた。思へば、私が古書を蒐めるやうになつたのも當然である。

私が始めて先王父から和裝の古書を買つて貰つたのは、中善からの相撲起顯の十册の完本で、小・中學生の頃に相撲に熱中してゐたから、相撲隱雲解とかいふやうな本を集めることができた。學問の本では中學三・四年生頃の玉かつまで、四年生の頃はおもに一高の受驗勉強の江戸の擬古文を和裝本によつてし、寫本に及んだ。であつたから、入試の採點では、漢文よりも國文が最上であつたことを後に知つた。

一高に在學中は、近郊の史蹟めぐりに凝つたため、武藏の地誌を集めた。唐本は先王父が好きでなかつたから買はなかつたが、漢籍一般にもほとんど手が出なかつた。これらの藏書は、呼吸器を患つて、大正十一年一月、先王父につれられて、葉山の日蔭茶屋に轉地した翌曉の留守中の自火に、先王父の數十萬卷の藏書とともに燒失した。當時、先王父の藏書は、日本人の詩文集の外、多方面に渉り、大日本史料・大日本古文書・東京市史稿の類まで揃つてゐたので、私は日本漢文學史を專門にしようかとも考へてゐた。戲曲小説書の蒐集などは思つてもゐなかつた。その資料が全く一朝にして燒亡したのであつた。その一月の上旬に竹田玩古洞主人から和裝の史籍集覽三箱を買つてもらつた。その値を傍で聞いてゐたわが家の下女は、之を最高價のものと思ひ、やつと二階からかつぎ下した。この本だけは今も藏してゐる。それと、携へて行つてゐた漢文大系の左氏會箋下一册、これには先王父の藏書票が殘つてゐる。先王父の本箱は、最もつまらぬ詩文集の一箱、これは端近にあつたので隣家に住んでゐた父がやつと運び出してくれた。先王父は平素盗難を恐れて、窓といふ窓には外から鐵格子や金網をつけてゐたので、窓からは何も出せなかつたのである。表座敷の縁側に、小さな皮鞄に入れて置いてあつた藏書目録は出たが、これは戰災で燒けた。

研究の資料を失つた私は、一高史談會の幹事をしてゐたので、支那史專攻に轉じようかとも考へた。箭内亙先生などは特に熱心に私を説かれたが、それにも增して熱心に誘導して下さつたのは一高の先輩倉石武四郞氏で、激勵せられた上、鹽谷靑山・安井朴堂の兩師を紹介せられ、靑山師の文選の會讀に參加することを得、朴堂門に入ることを許され、一高第三學年からは勸められるままに、東京外國語學校專修科()支那語部にも通つた。これが支那哲文學科を專攻するに至つた第一歩である。

大學に入る前、私は支那哲學・支那文學の何れを選ばうかと迷つたが、倉石先輩は、私が宋學が嫌ひだといふ點で共通するとて、自己の後輩として、私を鹽谷節山博士の同心町のお宅に誘つて、紹介してくれた。文學が好きだといふのではなく、宋學が嫌ひだといふことから文學科に入つた私には、勿論文學といふものは理解できず、無茶といへば無茶であつた。江戸文學は、家に有朋堂文庫百二十一册があつたので、それに收められてゐるものは、理解の程度は不十分でも、中學生時代に讀み耽つた。しかし、近代文學の作品は一册も讀んでゐなかつた。

鹽谷博士は、大學院學生のためといふ名目でも、實は一人の大學院學生もゐなかつたのに、元曲選の講義を續けられた。そのテキストの元曲選の影印本を上海から取寄せて購つたのが、私が戲曲小説を買つた最初であつた。先王父の舊知の東亞公司の桑野締三氏を介して上海出版書を續々入手し得たが、當時、私の小遣は毎月二十圓、古書の特別購入費は百圓、大部の本とか、中京・京阪で買ふものは、その百圓のわくの外であつた。元曲選の受講は私の戲曲小説書蒐集の基であつた。

この大學第一年生のときに、一高の旅行團に加はつて、始めて中華民國の北部中部の主要都市を巡歴した。北京に留學中の竹田復博士の東道で北京の古書肆を巡り、東亞公司社員の案内で上海の書店を巡つた。しかし、當時購つたものは、十三經注疏二部の外、随筆が主であつて、戲曲小説の古書には及ばなかつた。歸つて旬日たたぬうちに、關東大震災、しかし、わが家に被害はなかつた。私の收書簿は大正十四年に始まる。收書簿は藤塚鄰博士に倣つたものである。十四年の九月十二日に琳琅閣から宣德十年刊本新編金童玉女嬌紅記二卷二册を購つたが、これは大蟲のひどい本で、買主がつかなかつたものを琳琅閣が落としたもの。あまりにもぼろぼろなので、和田萬吉博士に示し、池上に製本させたが、全く和樣になつてしまつた。その製本代が書價の二分の一、雙紅堂の名の由來する所である。製本ができたのが十月二十八日。同年十二月に、名古屋の松本書店の目録で、寛延刊本唐書八十二册を四十圓で買つてもらつた、外に送料。松本は三重の旭旦齋の藏書を購つて正月に展覽會を開き、この唐書の縁で招待状を寄越した、先王父は私を伴つて名古屋に行つたが、松本は特に歡迎して、早くから會場に入れてくれたから、數十圓買つた。之を知つた京都の書賈某は、私が掘出したと告げ口をした。そこで、松本はその言を信じ、以來、目録を送つて來なくなつた。しかし、掘出したとはうそで、わづかに、知らずに買つた、淸田絢手入の貫華堂原刊本第五才子書施耐菴水滸傳三十二册七圓くらゐ、之につぐものが淸刊本玉嬌梨小傳の一圓三十錢。他は巾箱本第一奇書の八圓、萬治四年刊本南華眞經注疏解經の六圓のやうに、少しも安くはなかつたのである。そして、京都に連れて行つてもらひ、山田聖華房などで買つてもらつた。

昭和二年六月、前田家尊經閣文庫の賣立で、沐日堂刊本爾雅註疏、淸初楊素卿刊本天工開物、明崇禎刊本孝經大全、明萬暦刊本升菴先生文集、板倉節山舊藏寫本胡言漢語等を入手した。この年八月、北京に遊んで、かなり本を買つたが、研究題目である孔子に關するもの(戰爭中、帝國圖書館に買つてもらつた)の外随筆書が多かつた。和刻本を北京で購ふ味はこのときに知り、國史經籍志・鄭志・石經考(岡本保孝自筆書八本)などを得た。戲曲小説書はせいぜい淸初刊本に止まつた。この滯在中に、東京で祖父が死んだ。それも知らずに、當夜、梅蘭芳の劇を聽いてゐたことは實に祖父にすまないことであつた。先王父の葬式に間に合はせるために、陸路急遽歸宅した予は、北京の空が戀しく、父も之を察して、翌三年一月末、再び東京を離れた。奉天兵工廠に技師として派遣せられてゐた父の關係で、前年來、北京では大倉洋行に滯在し、卒業以來囑託を受けてゐた三菱の靜嘉堂文庫のために圖書を買入れてゐたため、三菱・大倉を目標に、北京の書賈は甘きに就く蟻の群の如くに集まつて來た。事實、大倉家の爲に、殿版や宋版を鑑定し、文庫の爲には、書目・叢書の類から、四庫收入本で文庫未收のものを選んだ。從つて、自己個人としては、文庫で買ひにくいもののみを購入した。

北京では、常に京劇や大鼓を聞いて、いはゆる戲迷の列にも入りかけ、漁陽界に名を賣つた。天橋から白姓の胡弓師を自室に請じ、午前中から胡弓の音を響かせたので、事務室から苦情をもらつた。

もともと、私が戲曲小説に傾倒したのはわけがあつた。在學中、酒も煙草もその味を知らなかつた私は、節山博士の酒宴に陪するたびごとに、酒の味を解せずして、李白の詩がわかるかといはれ、支那文學を專攻して詩が作れないではと叱られた。そこで、まづ、文を作り、詩を作つて、朴堂師に再三添削を乞うたが、又、朴堂師に叱られた。朴堂師は予に詩才がないことを熟知してゐられた爲であらう。詩を作る暇があるなら本を讀め、作詩は晩年隱退してからでも遲くはないとたしなめられた。そこで、負けぬ氣の私は、戲曲を學ぶのに、戲曲を歌ひ、之を作らずではなんであるかと、戲曲で名を成さうとした。これが、正式に師傅から歌曲を學ぶに至つた原因であるが、是より先、第二學年に在學中、東京外語の速成科蒙古語部に通つたのも、節山博士の知つてゐられない蒙古語で元曲の歌詞の一部を解明しようといふ目標であつた。しかし、意外にも、元曲の中に胡語は少かつた。歌曲は時調・大鼓・京調・崑曲の唱法を正式に學んだのであるが、今は殆ど忘れ、作るまでにはいかなかつた。酒は飮めるやうになつたが、それとて、李白の詩の解にはあまり役立たない。結局、文藝作家と評論家とは別で、評論家は作る原理を知つてゐればよいといふことが分かつた。

この年に北京で買つた書物は平平凡凡、活版の唱本ぐらゐ。この頃には、已に東京から上海の出版所に直接注文する方法を知り、知友のものも合はせ買つた。

馬隅卿()と往來したのは昭和二年に始まり、毎年の在燕中は度々彼を北河沿の孔德學校に訪ね、個人及び學校の藏書を見せて貰ひ、淸代北京に百本張とよぶ寫本の唱本賣りがゐたことを知ったが、翌四年七月に行つたときには、松筠閣に夥しい唱本を發見した。百本張の書目も、工尺譜のついたものも、身段(しぐさ)のあるのも、高腔の曲本も、雜曲の唱本もあつた。

書物を集めるときに値切ると、珍しい本を最初に見せてはくれないのが古書賈の常であるとは、かねて文求堂主人から聞いてゐた。そこで、滯燕中、いつも來訪する書賈の本は値切らずに、「留下罷」といつては殘し、書店名と書價とを記した札を誰にでもわかるやうに頭一本から下げて棚の上に置いた。すると、來訪の書賈が、自分の順番が來るのを待つてゐる間に勝手にその札を見て、翌日には、同一書をもつと安い價格で持つてきたり、同一類の書物を探して來たりして、便利であつた。

かやうにして、やがて文澂閣・來薫閣・保萃齋・文萃齋などからも鈔寫の曲本を得た。是等の中には内鈔本即ち宮中の寫本も多かつた。當時、北京の各圖書館ではこのやうな曲本を全く購はなかつたし、買つてもリベートを取られるので、書賈は私の許には喜んで持つて來たのである。この中で、内鈔本は日本では全く見られないし、身段の注記がある本は北京でも珍しいとて、一緖にこれらの唱本を整理分類してくれた傅惜華君にその大半を贈つたが、三經堂蔣韻蘭鈔本が多かつた。又、文澂閣高君から買つた中の「文藝齋」の印記のある桃花記・大明興隆・囘龍傳・銀盒走國の四種は、傅君の話に據ると、淸代に饅頭を賣つてゐた蒸鍋鋪で貸本として使つたものださうである。

高腔といふ劇曲は、靑木博士が保定まで求めて行つて、遂に聽けなかつたといはれたものであるが、淸代には宮中でも崑腔と互演せられてゐたもの、予は幸に二十數囘も耳にすることができたが、その曲本の傳來は少く、曲詞の右に小三角形めいた符號の頂點から上方へと直線が延びてゐるので判別できる。

崑曲は淸末以來已に上演せられることが少く、一方で、わが謠曲の如く、素人が家庭で習ふため、かやうな目的で書寫せられた段物集が多い。刊本の遏雲閣曲譜は大體さういふ目的で編修さられたもの、集成曲譜もほぼ同樣である。

歸京後間もない十月十一日の朝、村口書房の目録を手にして、その中に、高崎藩大河内氏舊藏の明淸小説の一口物が載つてゐるのを見、直に村口書房に行つたが、一番槍で、神山潤治氏が二番、そこで、左のやうな珍書を獲た。

二胥記二卷三〇齣 明孟稱舜 明崇禎刊

風流十傳八卷 明陳繼儒評 明萬暦刊

警世通言三六卷 可一主人評無礙居士校 明末淸初刊

醒世恆言四〇卷 可一居士評墨浪主人校 淸刊

拍案驚奇三六卷 明凌濛初 淸刊

西湖拾遺四八卷 淸刊

博古齋評點小説警世奇觀一八帙(有缺) 淸刊

新刻繡像批評金瓶梅二〇卷一〇〇囘(圖缺) 明刊本

皇明中興聖烈傳五卷 明樂舜日(西湖義士) 明刊

後西遊記・今古奇聞もこの時のものである。

この中で、二胥記・風流十傳の二書は、後に北京保萃齋に送つて、金鑲玉に重裝せしめ、そのとき、二胥記の轉寫を北京圖書館に對して認めた。その翌々日、これらの戲曲小説類が廉價であるし、二胥記と同一著者であるとて、明崇禎刊本新鐫節義鴛鴦塚嬌紅記二卷を百六十圓で文求堂に買はされた。小説嬌紅記の一名が雙紅傳であるから、明宣德刊本と二種では、わが書齋名は實は兩雙紅堂であるべきであつた。

翌五年の夏は中支から北京に訪書した。そして、蘇州で鈔本の崑曲の稽古本を購つた。陳湘記鈔本の類である。萬暦刊本還魂記・重校玉簪記、淸刊續離騒(鄭氏淸人雜劇本の底本)などはこのときの入手書。七經孟子考文の和刻本を二百元で北京に獲た。松筠閣で、養和堂・百壽堂などの鈔本、角本(一脚色の唱白のみ記した本)や八角鼓・影戲の唱本を購つたのもこのときであるが、一年間に、北京の學界で、私が鈔本の唱本を買つたことを知つて、私の著燕前に早く手を廻したため、入手は前年のやうに樂ではなかつた。そればかりではなく、その翌六年は蘇州に著けばそこに、杭州に行くと又そこに、北京圖書館の幹部が出張だといつて來てゐるには驚いた。まるで監視せられてゐるやうであつたが、さうされてみると、反抗的になにか拔いてやりたくなるのが人情。蘇州では、金陵小字本本草綱目といふ、世界で五部と存在が知られてゐない珍書を、店頭攤子の最前列から掘出した。杭州で文瀾閣本四庫全書本を掘出したのもこのときであつた。

この四庫全書本については面白い話がある。昭和二年秋の歸京後、北京の來薫閣から、同種の嘉禾百詠を靜嘉堂へと送つて來た。私には眞僞の程が分からないので、あちらこちらへと聞き廻つた。なにしろ、閣印が全くないのである。誰もが四庫全書の零本とは見てくれない。市村博士さへも、原本ではないといはれるのである。翌三年、北京で零本を配した本を見たが、徐森玉氏を初め、皆南の三閣の本とは見ない。私が靜嘉堂に關係してゐる間、傳來が少いと思ふ本は、どこで見ても、個人で買へる位の價格のものでも靜嘉堂に入れたが、例外はこの一部、眞僞が決定しないので、來薫閣から催促されたまま二十五圓を送つて自分のものにしたのである。そこで、この年の杭州訪問では、この眞僞を確かめるのが第一目的であつたが、調査の結果、單に眞であるばかりでなく、現存本には殆ど元表紙が存してゐないのを知り、更に驚いたことは、同種の原本が十册近くも杭州の書店にころがつてゐたといふ事實であつた。この年、出発前当時の東方文化學院院長服部博士から、宋版などの標本の代購を賴まれたため、その中で二册を購ひ、一册(竹嶼山房雜部)を北京で見つけた禮記正義・重校添注音辯唐柳先生文集等の零本とともに文求堂を通じて納め、一册を博士に獻じた。全部購ひ去るには忍びなかつたためである。同樣な例は北京でもあつた。

昭和七年七月に、文求堂から鍾伯敬先生批評三國志二十卷を買つた。やはり第一册である序目と圖繪とが缺けてゐる。大體、繪入本は大衆的に近い俗本である。であるから、支那本土では多く粗末に扱はれ、わが國では、繪を貴重視し、特に畫家が資料として大切にしたため、首册が本文と分かれてしまつたことが多い。成簣堂文庫所藏盛明雜劇、富岡文庫舊藏列國志傳などの口繪はかくて本文から分離したのである。

昭和七年夏の滯燕中には百本張鈔本の薄册を獲た。牌子曲・赶板・小岔・琴腔・馬頭調・湖廣調・大鼓書・二黄・快書・子弟書の各類に亙り、老聚卷堂鈔本子弟書・二黄、別埜堂鈔本皮黄をも獲た。明崇禎刊本石渠閣精訂皇明英烈傳を琳琅閣で入手したのは同年十月のことであつた。早大で哲學を講じてゐた千葉掬香の千葉文庫がこの秋に散佚した。同文庫には戲曲小説書が多く、予は數度縱覽したが、この十一月にまづ明存仁堂刊本新鐫國朝名公神斷李卓吾詳情公案・淸草閒堂刊本草閒居新編五鳳吟・明汲古閣刊本水滸記(全卷和譯ルビ附)・寫本淸君錦先生水滸傳批評解を初め、人間樂・四巧説などを大屋書房の手で落札した。同月、淺倉屋で明崇禎中劉興我刊本新刻全像水滸傳といふ孤本を入手。

昭和八年九月には巖松堂から新鐫時尚樂府千家合錦・新編時尚樂府新聲・新鐫南北時尚絲絃小曲・新編説唱孫行者大鬧天宮の四小册を金一圓で掘出した。十年四月に新鐫批評桃花影を京都の竹苞樓から買つたが、その前後是といふものを買つてゐないのは、新居を持つて、書物にまで手が届かなかつたからである。

十三年九月には山本悌二郞氏藏書の賣立があつた。新撰漢和辭典の出版で少し餘裕を得た予は若干を入札させたが、陳列せられたものは全然入手できず、山積みの中で發見した淸乾隆刊本書隱叢説と、明萬暦刊本唐白虎先生外編・淸刊本俚言解とを、各誠心堂・山本書店を介して落札した。雙忠廟傳奇を誠心堂に獲たのは同時であるが、山本氏藏書であつたか否かは不明。月末に、浪史・新鐫出相批評儈尼孽海・玉樓春を一括して琳琅閣で購つた。たしか若樹文庫本の入札であつたらう。

十四年一月、淺倉屋から寫本の杏花天を入手、中川忠英舊藏。三月には富岡文庫入札。高くて、やつと、明天啓刊本歴代史略詞話及び明萬暦刊本新鐫陳眉公先生評點春秋列國志傳の口繪を山本書店を經て落札、前者は大正十二年五月の鹿田松雲堂の書目に二圓五十錢で出てゐたものである。五月に沖森から明萬暦刊本鼎刻江湖歴覽杜騙新書を入手。九月には千葉文庫の本が南陽堂に出たので、二十餘部を購つた。その中での逸品は明萬暦癸卯佳麗書林刊本新刻全像音詮征播奏捷傳通俗演義六卷一〇〇囘と明刊巾箱本賽徴歌集と、ついで明末蘇州五雅堂刊本列國志(片璧列國志)・新編繡像畫圖縁小傳・金蘭筏・錦香亭・水石縁・玉樓春などで、遠山荷塘自筆の嫦娥淸韻も尤品。新刊欝輪袍雜劇・新刊杜祁公看傀儡雜劇・新刊葫蘆先生雜劇の新寫本、淸刊本韓湘子十二度韓文公藍關記などもこのときの入手で、わが蒐書の歴史中、前の大河内家舊藏本の入手と前後兩度の惠まれた機會であつた。昭和十五年八月、一誠堂の奥の陳列室から、明萬暦新刊出像天妃濟世出身傳二卷の卷下を獲た。孤本である。ところが同一書の卷上は、十七年一月に文雅堂で見附かつて、完本となつた。かういふことは珍しい。十七年六月に、山本書店から明萬暦中潭陽劉應襲刊本李卓吾先生批評西廂記を買つた。

空襲で、新撰漢和辭典の原版も淸摺も燒けたために、敗戰前後は書物は買ふどころではなかつた。多くの稀覯書の市場に出たのを、傍觀するに過ぎなかつた。二十二年の夏頃から買へるやうになつたが、貨幣價値の變動がのみ込めず、購入に躊躇することが多かつたので、古書が安かつたときには全く買へなかつたのである。

これらの入手書の中で、帶圖本は本研究所には入れなかつた。それは豫算の關係でもあつた。であるから、雙紅堂文庫といつても、主人のゐない雙紅堂になつてしまつたのは遺憾である。帶圖本の大部分は、新居の手入の費用が不足したため、村口書店に鬻いでしまつた。

 

 

 

(注)『東京大学東洋文化研究所蔵 雙紅堂文庫分類目録』(長澤規矩也編 昭和三十六年)より転載。

   ただし一部の旧字は新字に改めた。